2013年04月04日

『あがらの和歌山・方言てほんまにおもしゃいでぇ』

シリーズの第7弾 『あがらの和歌山・方言てほんまにおもしゃいでぇ』

  


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2012年05月17日

あがらの和歌山「和歌山県民手帳」

あがらの和歌山「和歌山県民手帳」
@テレわかで紹介していただきました。


  


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2011年06月03日

@ぐるっと関西おひるまえ

ぐるっと関西おひるまえ「たっぷり和歌山」
「あがらの和歌山・地名てほんまにおもしゃいでぇ」
が放送されました。


  


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2011年06月03日

「地名ってほんまにおもしゃでぇ」@あっとテレわか

あっとテレわかで放送されました。

  


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2010年03月23日

おっちゃんの宝物


「あがらの和歌山」6冊目の本が出来上がりました。
タイトルは「おっちゃんの宝物」





  


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2010年03月07日

今日は何の日・オークワ


(H13) 3月7日オークワが東京証券取引所第一部に上場する。

株価初値は1189円でその後僅か30分で、前日の大阪証券取引所終値より200円高の1233円のストップ高。今年に入り株価低迷の続く中久しぶりのストップ高で注目を浴びる。

県内では紀陽銀行・ノーリツ鋼機・島精機に続いて四社目 
  


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2010年03月06日

今日は何の日・駿河屋~グリコ森永事件


昭和60年3月6日
グリコ・森永事件で犯人グループの「かい人21面相」は、第6の企業として和菓子の駿河屋を脅迫した。犯人は2月27日に22通目の挑戦状で、森永製菓への脅迫終結宣言をする裏で 3月6日、豊中市の駿河屋大阪支店長宅へ「グリコや森永のような目に遭いたくなかったら五千万円をだせ。」との脅迫状を送りつけた。封筒の中には、パンライターの9ポイント細丸ゴシック体でタイプ打ちされた脅迫状と、江崎グリコ社長の声のカセットテープが同封されていた。指定された8日午後7時に豊中市のレストランで待機したが、犯人側からの接触はなかった。

犯人グループは8月21日、25通目の挑戦状で、食品企業への脅迫を止める終結宣言を出した

  


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2010年03月04日

今日は何の日・坂本冬美


1987 (S62) 3月4日 坂本冬美が「あばれ太鼓」でデビュー     
昭和42年3月30日上富田町にて誕生。中学高校時代はソフトボール部に所属。卒業後は、紀州の梅干会社に勤務。1986年「NHK勝ち抜き歌謡天国」の和歌山県大会に出場し昭和61年度の和歌山大会名人となる。そこで出合った故・猪俣公章の勧めで上京し内弟子となる。そして一年後昭和62年3月4日19歳の時「あばれ太鼓」でデビューし紅白歌合戦に初出場
  


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2010年03月04日

今日は何の日・護摩壇山(ごまだん)


2009 (H21 ) 県内最高峰とされていた護摩壇山(ごまだん)1372メートルの近くで確認された新たな最高峰の山の名前が一般公募で「龍神岳」と決まり、平成21年3月3日現地で命名記念式典が行われた。国土地理院が航空測量に基づき91年に護摩壇山(ごまだん)を県内最高峰と公表したが、99年、等高線を調べた埼玉県の教師から指摘があり、00年の調査で護摩壇山から東へ700メートルの場所に存在する山の方が10メートル高い事が判明した。護摩壇山の名前のは平家伝説に由来して付けられており、地元では愛着を持って呼ばれている。
  


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2010年03月04日

今日は何の日・神坂次郎(こうさかじろう)


1927 (S-2) 小説家・神坂次郎(こうさかじろう) 
昭和2年3月2日 有田市箕島にて誕生 本名・中西久夫 。生家の中西家は材木問屋と有田川 流域のイカダ師の元締めを家業としていた。神坂の祖父は大正7年下津大崎の天然の良港に着眼し、塩田と付近の水域を埋め立て、当時では東洋一の規模の木材工場を建設した。戦争により この用地は海軍からの要請により丸善鉱油に売却され燃料基地になってゆく。
父親はハーレーのオートバイを乗り回したりゴルフをしたりする一方、母親が家業を切り回していた。小学校は松下孝之助や南方熊楠と同じ和歌山市内の雄(おの)小学校に通った。新聞記者志望であったが 陸軍飛行学校へ進み愛知県小牧飛行基地で 終戦を迎える。戦後、演劇関係を経て淺川組の創業者長井長一の知遇を得て土木の世界に足を踏み込、み土木と小説の二足のワラジを24年間はき続ける入る。その後は一貫して和歌山に拠点を置いて活動を続けている。

1992年・皇族としては711年振りの熊野行幸となった皇太子殿下の熊野行啓に際し、自著「熊野御幸」を2時間半にわたって御進講。昭和57年「南方熊楠その人と生涯」が 文部大臣賞最優秀賞。昭和62年 「縛られた巨人南方熊楠の生涯」刊行。平成 2年 県文化賞受賞 平成14年 南方熊楠特別賞受賞 
  


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2010年03月04日

あがらの和歌山・3月1日・今日は何の日


1577 (天正5) 織田信長軍が、
         鈴木孫一の構える秋葉山弥勒寺に総攻撃を加える
1747 ( 延享4 ) 画家・野呂介石(のろかいせき)生誕(和歌山市)  
1879 (M12) 師範学校内に和歌山中等学校を開校する 
        県立中学(和歌山中学)の前身。
1913 (T-2 )  和歌浦の観光旅館 望海楼(ぼうかいろう)に
         県下で初の自家用自動車登場
1936 (S11)  NHK和歌山放送局・開局 ・三木町台所町に
         大阪中央放送局和歌山出張所を開設する。 
1965 (S40)  国鉄紀勢線に特急くろしお登場
         和歌山と天王寺間がノンストップで45分
1967 (S42)  和歌山市内水軒浜の埋め立てが完了し、
         南港の材木工業団地が完成する
1978 (S53) 数学者・岡潔逝去
  


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2010年02月27日

オークワ・主婦の店一号店オープン


1959 (S34)主婦の店オークワ一号店がオープン 
     
昭和13年(1938年)5月に創業者の大桑勇が熊野市木本で呉服の行商委託販売を始める。34年2月27日 オークワの前身・主婦の店オークワ新宮店を開店。44年2月21日㈱オークワを設立、
51年チェーンストアーオークワに社名を変更、62年10月8日 、大阪証券取引所二部上場。平成2年8月1日 大阪証券取引所一部上場。平成5年大桑教育文化振興財団を設立。 平成12年2月21日現社名に。 13年3月7日 東京証券取引所一部上場。17年9月5日 マツモトキヨシと提携、 17年11月1日 ヒラマツと資本提携  平成20年1月17日。

  


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2010年02月23日

竹中平蔵


2009年
和歌山放送は開局50周年特別企画「第78回情報懇談会」に竹中平蔵元・総務大臣を特別ゲストに迎えで講演会を開催した。2009年日本経済の展望と和歌山への期待」と言う講演の中で竹中元大臣はピンチがチャンスと言う言葉を用い、100年に一度の経済危機という言葉を言い訳に使わず、リスクと向き合う必要性を強調した。また和歌山県への期待として「農業の強化」と「観光振興」を挙げた。和歌山は豊かな自然があり恵まれた地域である事を後世に伝えて行きたい。そう言う経済改革を進めたいと話した。

竹中平蔵慶応義塾教授と、仁坂吉伸知事は桐蔭高校時代の同級生で、そのときの恩師が小関洋治県文化財センター理事長だったと言うことで、同級生・恩師鼎談(ていだん)が実現しした
  


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2010年02月18日

地価番付発表


53年前の昭和33年2月18日 和歌山税務署が県下路線価格の地価番付を発表(価格は坪当り)。

本町二丁目電停から元寺町大通りまでの通りが10万5千円でトップ、 元寺町大通りから 築映横の雑賀橋までの通りが9万1千円 で二位、 京橋から丸正百貨店までの電車通りが7万1千円、公園前交差点も同じく7万1千円、 東和歌山駅電車通りは8万1千円。 市駅前付近にも6万5千円というところも有り、これらがまずトップクラスである。 
     
元寺町大通りの繁華街は5万5千円。ぶらくり丁反対側の万町(よろずまち)問屋筋は4万1千円。 経済センター建築中の汀丁付近は2万5千円, 八番丁や十三番丁は1万3千円。

住友金属和歌山工場の大拡張に伴う松江地区の売買相場は高いところで4千円、 観光地和歌浦は9千円から1千4千円、 海南駅前3千3百円 田辺本町通り3千2百円。新宮駅前3千2百円 

これらの土地の時価は、国税局の評価価格より五割高と言うのが相場とのこと。


  


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2010年02月16日

西行法師(さいぎょうほうし)


1190 年  平安の歌人・西行法師(さいぎょうほうし)没。
西行は紀ノ川市打田町の出身とされている。
本名は佐藤義清(のりきよ)北面の武士であった。 1118年生誕、1140年10月15日、23歳で出家し、仏道と歌道に専念する。その理由として一説によれば、ある高貴な人妻に恋をして、その失恋の結果だと言われている。また別の説によれば、前日まで元気であった友人が、一晩でポックリ死んでしまったのがショックで、人の命のはかなさ、世の無常を感じて出家したとも言われている。

西行は亡くなる十数年前、遺言のように次の歌を詠んでいた。    
願わくば 花のもとにて春死なむ 
その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ


如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃は、2月15日で、釈迦(しゃか)の命日にあたり、西行が72歳で来世へと旅立ったのは、一日遅れの1190年2月16日であった。河内の国 弘川寺に眠る。

  


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2010年02月15日

山東軽便鉄道


1916年、大正5年2月15日、
和歌山市田中町より、海草郡山東村に通ずる「山東軽便鉄道」が開通する。●当時の新聞記事より

既にその筋の検査を了し、諸般の準備ととのいたれば、愈愈(いよいよ)今15日より営業を開始することヽなれり。停車場は大橋・秋月・神前・竈山・岡崎前・吉禮・山東の7ヶ所にして、賃金は大橋~山東間、片道17銭、往復27銭「通行税共」なり。尚本日は会社株主を招待して試乗をなさしめ、余興(よきょう)として大橋構内に於いて、大阪信濃屋の二○加(にわか)を一般の観覧に供する外 (ほか)、投餅をなす筈なり。

但し、開業式はしばらく延期し、3月陽春の候を待って花花しく挙行する予定なりしと言う。
  


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2010年02月13日

東洋一の観光用エレヴェーター運転停止


1910年・明治43年、和歌の浦玉津島神社裏の「てんぐ山」に、
「望海楼」により東洋一の観光用エレベーター「明光号」が設置
され10月1日に開業した。
明治45年8月14日にこのエレベーターに乗った小説家の夏目漱石は、後の小説「行人」の中で、「此の昇降機は、普通のやうに家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂きまで物数奇な人間を引き上げる仕掛けで、所にも似ず無風流な装置に違いないが、浅草にも未だない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。」と書いた。

六年間だけ存在し、大正五年2月13日に運転が停止され、2~3日後に解体された。その後・撤去・売却されたが、その撤去の理由としては、乗降客も少なくなり収支が合わなくなった事や、当時、欧州で戦乱があり、鉄材が高騰しており、造船所やその他から譲り受けたいとの話があり、いま売却するのはチャンスである」としている

  


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2010年02月12日

武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)



昭和2年作家の武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)
和歌山市外の高松に在住中の作家~武者小路実篤は、来る二十日頃から東京へ移り住むことになり、12日夜は「新しき村和歌山支部」主催の送別会に臨み 、13日は午後一時から大阪キリスト教青年記念館で開かれた送別文芸大会の講演会の後、 午後六時から晩餐会に列した 。

14日は 田辺市の錦成青年会及びに田辺詩和会主催の講演会に、 15日七時半からは、大阪放送局に於いて、武者小路実篤の戯曲「佛陀・ 孫悟空」を放送するにつき、前記の戯曲に関する文芸鎖談を試みるべく、マイクロホンの前に立つなど、 連日ほとんど一分の隙もない精力ぶりを発揮している。

武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)(1885~1976)は、白樺派を代表する小説家であり、ゴッホやレンブラントなど西洋美術を日本に最初に紹介した人物。
のちに「人間は自分のために生きていると考えるにはつまらない」と語っている

  


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2010年02月11日

住友金属の建設内定。


1940 (S15) 2月11日
住友金属の和歌山製鉄所建設が内定する。

県は前年の八月に、河西(かせい)地区を工場誘致候補地として 住友金属本社との交渉を開始し、 決定していた土地130万坪の
造成を開始し建設に着手した。
この時の土地売買価格は 水田6円、畑6円40銭で 時価は
坪当たり2円30銭であった

  


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2010年02月10日

ヨハネス・クヌッセン機関長



昭和32年2月10日、午後9時40分頃 、デンマークの貨物船エレン・マークス号のヨハネス・クヌッセン機関長は、名古屋港から神戸港に向け美浜町の日の岬沖を航海していた。 丁度その時 火災をおこし、今にも沈没しそうな一隻の船を発見。この船は、徳島県の機帆船高砂丸で、乗組員二人が必死に助けを求めていた。クヌッセン機関長は、日本人の乗組員を助けようとして、 嵐の海上に飛び込んだが、高波のため意のままに救助できず、乗務員と共に帰らぬ人となった。

クヌッセンは39歳で独身、母国では母と兄姉が待っていた。
当時、和歌山のメディアで大々的に取り上げられ、クヌッセン機関長の国境を越えた人間愛に称賛の拍手が贈られた。 
同年7月1日には美浜町日の山山頂(日の岬パークに)「クヌッセン機関長顕彰碑」が建てられてた。

  


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